翻訳と辞書
Words near each other
・ 中村裕二
・ 中村裕介
・ 中村裕司
・ 中村裕樹
・ 中村裕造
・ 中村西根
・ 中村西根 (土浦市)
・ 中村要
・ 中村覚
・ 中村覚之助
中村覚之助 (サッカー)
・ 中村覚之助 (競馬)
・ 中村親方
・ 中村覺
・ 中村記念美術館
・ 中村誠
・ 中村誠 (グラフィックデザイナー)
・ 中村誠 (空手家)
・ 中村誠 (脚本家)
・ 中村誠 (自転車選手)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

中村覚之助 (サッカー) : ミニ英和和英辞書
中村覚之助 (サッカー)[なかむら かくのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

中村覚之助 (サッカー) : ウィキペディア日本語版
中村覚之助 (サッカー)[なかむら かくのすけ]

中村 覚之助(なかむら かくのすけ、1878年5月 - 1906年7月3日)は、日本サッカー選手指導者。サッカーを初めて日本に紹介、その普及に貢献した。
== 経歴 ==
1878年明治11年)、和歌山県東牟婁郡那智町(現:那智勝浦町)浜ノ宮で生まれ、神社の氏子を務める家柄でもあった。1899年(明治32年)、和歌山師範学校(現・和歌山大学教育学部)を卒業し、宇久井尋常高等小学校(現・宇久井小学校)で教師となるが、1年で退職した。
1900年(明治33年)、東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学。1903年(明治36年)、イギリスの本を翻訳・編集して日本最初のサッカー指導書「アッソシェーションフットボール」を東京高等師範学校蹴球部(現:筑波大学蹴球部)の名で出版。また、ア式蹴球(しゅうきゅう)部を創設。これが日本で最初のア式フットボール(現在のサッカー)のチームであるとされる。1904年(明治37年)2月6日、4年生の中村の企画で東京高師は横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)と日本で最初のサッカー対外試合を行った。
1904年(明治37年)3月、東京高等師範学校を卒業。翌年、山東省済南師範学校へ国から派遣された。1906年(明治39年)6月28日、病の療養のために帰国し、神戸市に到着。1906年(明治39年)7月3日に死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中村覚之助 (サッカー)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.